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正克とカナ子

正克54歳の頃(2002年撮影)

助川農園の“お父さん”助川正克の半生記です。

2000年頃に当時取引のあった生協のイベントで消費者の方を前に講演した内容をまとめたものです。

農業をやろうと思ったきっかけやトマトとの出会いから始まって、思考錯誤しながら、現在の美味しく安全で安心なトマトづくりに至った足跡です。

また化学肥料と農薬全盛時代から現在の有機肥料無農薬志向の時代への流れもわかると思います。

上のアイチャッチの写真は、移転前のAハウス建設当時のものです。

手前を通っている道が砂利道でした。今から約半世紀前の1970年代の頃です。

1.農業との出会い

農家の家に生まれて(0歳から15歳頃)

私は昭和23年(1948年)に生まれています。代々農家の家でした。物心つく頃は、両親がもちろん農業をやっておりまして、小学校5年のときに祖母が中学校1年のときに祖父が亡くなっておりますので、140アールの田んぼと20アールくらいの畑で両親は農業をやっていたわけです。

このころ記憶にあるのは、いつも金がない話だったんですね。米を農協に供出するわけなんですけれども、供出して1ヵ月ほど過ぎるともう金がないよ、というような話を今強烈に覚えておりまして、なんでそんなに金がないのかなと思っていました。

兄弟は3人で、5人家族だったのですが、私が農業を始める前の年(昭和1970年頃)の総収入が100万足らず、だいたい100万円くらいしかなかったのです。

そのときは米のお金と、母が勿来の街の方に行商に行っていまして、そこで1日2千円か3千円くらいの野菜の売上げがありました。鶏も若干やっていましたが、ものの数ではない。

そんな農家の長男として育っていたわけなんですけれども、自分の体がだんだん大きくなるにつれて、ことあるたびに農作業のあてに使われるわけなんです。小学校3年から毎日近くの蛭田川の堤防で馬の草刈りをやっていましたし、休みになると馬のお昼の世話は私の仕事でした。

そういう農家の長男の仕組みというような感覚で家の手伝いをやってはいたのですが、将来農業に就こうという気持ちはまだまだその段階では私の心の中にはなかったのです。

農業を継ごう!(高校生)

 いつ自分で農業をやろうという決心をしたかというと、高校3年生の時でした。

実は私は農業高校ではなくて、近くの工業高校の機械科を選びまして、そっちの方の勉強をやっていたのです。

なぜ工業高校に行ったのかというと、ちょうど昭和30年代に、郡山といわき市とが「新産業都市」という指定を受けたのです。地元でも大規模な製紙工場が進出してきたりして、うちの親父は農業をやりながら、息子をどうしようかと多分迷ったのではないかと思います。

農業は私が後でも教えることができる、これから先どうなるかわからないので、工業の勉強も一つの選択肢として必要なのではないかという観点で、中学3年の三者面談のときに工業という線が初めて出てきたのです。それまで全く私は農業高校に行くつもりでしたし、勉強なんかろくにしなかったのですが、最終的に工業の機械科に決めました。

高校で工業の勉強をして3年が過ぎて、卒業間近になると、級友たちは就職試験にいくわけです。私もどこどこ入社ということで決まりかけていたのですが、最終的にある人の一言で農業の職業を選んだのです。

ある人が私の親父を指して、「最近年とったね。大分きつそうだね」という言葉を私に言うのです。

「それじゃ、私がやるようにした方が一番いいのかな」ということで、農業という職業を選ばうと思いました。それは高校3年の1月だったと思いますが
、そこで初めて自覚をしたというか、選んだのです。

2.研修時代(20歳前後)

①福島県立矢吹伝習農場

 工業高校卒業後、農業の勉強をしていくのですが、まず1年目は農業の基礎を勉強しようということで、昭和42年(1967年)4月福島県矢吹町にある矢吹伝習農場(現、福島県立農業短期大学校)に入学しました。

それまで農業者というのは、中学を出た人がこの学校で勉強していたのですが、ようやく県の農政課の方でも、高校を終わった人たちを対象にした勉強の場を作ろうということで初めてできた学校が、伝習農場の付属高等農業学園という学校で、その2期生として1年間勉強しました。

施設園芸を知る

 そこで初めて農業というのは幅広い粋があるのだということを認識しました。

水稲、果樹、畜産。畜産の中でも牛とか鶏とか豚とかいろいろ分かれています。それも繁殖と肥育に分かれているのです。それから、野菜も露地型、施設型。それから花井、花も切り花と鉢物というふうです。本当に農業と一言で言いますけれども、いろんな分野に分かれているということが分かったのです。

その中で、私は「都市近郊園芸」を選びました。

私が高校を終わったのは昭和42年で、昭和42、3年頃からだんだん都市近郊の施設型野菜というのが脚光を浴びてきた時代でしたから、私たちもそういう方向に進もうということで、施設園芸を初めてそこで選んだのです。ですから今振り返って、この2、3年は自分の進路を決めるのにとても重要な時期だったと思います。

平出園芸農場へ(トマトとキュウリを学ぶ)

 伝習農場で1年間勉強して家に帰ってきて、さあ就農しようと思ったのですが、いかんせん農場のビニールハウスは大きさが1アールくらいの施設しかありませんので、家に帰ってきてもなかなか採算がとれません。

これはもう一回勉強し直さなくてはいけないと思いまして、勿来の農業改良普及所(現、県農林事務所普及部)に相談に行きました。そこで紹介された全国農村青年留学制度を利用することにしました。

私自身は静岡の施設園芸農家に行って勉強したいという希望を出したのですが、栃木県の施設園芸農家で受け入れ可能ということで、昭和43年の6月から翌44年の3月まで9ヵ月間、そこで実際の農家に入って勉強しました。

そこの農場は「平出園芸農場」といいまして、私が行ったときで施設面積が70アールのハウスをやっていました。私の研修期間中にまた30アールのハウスを作りましたので、100アールのハウス、現代風にいいますと1万平方メートル、坪に直すと3千坪という大型施設園芸農家へ行って研修してきたのです。

そこで、初めて今度は現在やっているトマトとキュウリの実際の研修を受けてきました。

経営シュミレーション体験

 研修生の仲間は合計10人くらいいました。私は皆とは1年遅れて20歳の年に行ったのですが、他の研修生の仲間は高校が終わってすぐの年で研修に来ていました。殆どの方が栃木県内の方で、今でも交流があります。

そういう研修生の仲間と一緒に農業をやるということになりますと、1年前の伝習農場のときとは違い、はっきりとした就農してからの目標なり夢なり決まりなりがいっぱいありますので、いろんな会話ができるわけなんです。

もちろん今日の作業の反省とか、明日の作業の予定、それはどういう目的なのか、夜、農場主が研修生の部屋に来て講義などもしていただきながら、みっちりと1年間トマト作りキュウリ作りの勉強をしたわけなのです。やはり、それが現在も続いている大きな体験だったなと思います。

私も子供たちにいうのですが、とにかく社会に出る前に、自分が社会に出てからのことをよくイメージトレーニングしておけよというのですが、なかなかそうもいかないのが現実かなと考えていますが、私は幸いにそういう体験をして、いよいよ「就農」ということになります。

3.就農初期(20代)

就農準備

 矢吹伝習農場と平出園芸農場と、計2年の研修期間終了後、私は家に戻り就農しました。就農する前にいろいろな準備が必要で、うちの親父が栃木に来たときや電話したときにそれを頼んでおきました。

要するにビニールハウスを作るわけなんですが、いろんなことを準備しておかなければなりません。今はオール鉄骨で、錆びないものを使ってビニールハウスを作るのですが、当時はまだ鉄骨は鉄を使いますが、杭は木を使ったり、孟宗竹を使ったり、樽木を使ったりということで、そういう加工の準備を親父がやってくれました。

初収穫のよろこび

 家に帰ってきて昭和44年6月から施設を作り、初めて作物を作ったのがキュウリだったのです。 キュウリを一作作ったところ、18万円の収入がありました。

10月にトマトの種を蒔いて、次の年、トマト10アールあたりの収入が180万円ありました。

第1章で触れましたが、当時家の総収入が100万円の時代でした。そのときは田んぼを140アールやっていて100万くらいだったので、私がトマト10アールをやって、180万円トマトを売ったということに、親父たちは非常にびっくりしたのです。こんなにトマトは儲かるのかと、収入があったことを親父たちは喜んでくれました。

目標設定

 それからは私自身で経営目標を立てました。単年度目標ではなくて、5年くらいのスパンに区切って、目標を作ったのです。どういう形にしたかといいますと、まずは1日1万円ほしいと。1年間の総収入で365万円欲しいなと。

当時の同年配のサラリーマンの給料が1ヵ月4万円か5万円くらいだったものですから、田んぽを使って施設=ビニールハウスに金を投資して、さらに、サラリーマンと同じくらい使えるお金が欲しいということを前提に考えますと、やはり1日1万円で年俸365万円です。

そういう目標を立てていくのですが、それは10アールでは解消できませんので、すぐに次の年20アールに増設をしました。(現Aハウス)その次の区切りは500万円にしたいなという目標を立てました。

結婚する

 そしてちょうど就農して4年目に、私は結婚いたしました。

たまたま私のところに来てくれる人がいましたので、昭和48年(1973年)3月に結婚しました。女性の方には大変失礼なのですが、当時の私の感覚では結婚イコール労働力という感覚でして、トマトは3月の中旬頃から収穫に入り忙しいので、新婚流行から帰ったらすぐにトマトの収穫作業に入るということで、結婚式も収穫に入る前の3月3日を選びました。

私の女房は何も言わないですぐに手伝ってくれましたので、幸いだったと今でも感謝をしています。

結婚してからすぐに面積を30アールに増やし、(現Bハウス10アールを増設)しばらくその30アールでトマトとキュウリの年2作を作っていました。

順調にいったかに見えた農業経営だったのですが、実は四番日の「挫折」に入るのです。

4.挫折(30歳頃)

土壌病害発生

 トマトを作りはじめて9作目、とうとう土壌病害が入ってしまいました。昭和52年(1977年)のことです。これは避けて通れないことなんですが、土の管理が悪くてトマトに病気が入ってしまったということなんですね。

未熟堆肥混入事件

 土作りの話をしても分かるかどうか、ちょっと専門的な言葉に入ります。

当時は「土作り」ということをあまり聞きませんでした。自分たちの周りにある稲藁とか鶏糞とか化成肥料とか油粕とか、有機質肥料と化成肥料を半々くらいの割合でハウスの中の土に肥料として施して、トマト作りをやっていたのですが、あるとき、未熟の動物性の堆肥と木質堆肥を使ってしまったのです。

当時は有機質なら何でも入れればいいのではないかというような感覚を持っていまして、その木質と未熟の動物性の堆肥を入れたために土が壊れて病気になった。今思うとそういうストーリーがあったのです。

木質堆肥の危険性

 なぜ木質が相性が悪いのかというと、木質堆肥は完全に腐食してから土に入れないと、非常に危険性があるのです。それは、木質自身がもっているリグニンとかその他3つくらいの毒素があるのですが、その毒素が土の中で悪さをするわけなのです。その毒素を完全に抜いて、腐食してぼろぼろになるまでハウスの外で腐らせてから土に還してやればよかったのですが、未熟だったために毒素が土の中で蔓延しまして、根っこが痛められました。

正式な診断名は「褐色根腐れ病」という根が腐ってしまう病気だったものですから、翌昭和53年の5月6月頃になり温度が上がってくると、トマトの根っこがやられて下の葉から枯れてしまいました。

そのため、収入は前年度対比で60%くらい、4割ダウンの年が9年目にありました。

5.農薬の限界

土の中の健康づくり

 土壌病害の発生により、これではちょっと将来問題だなと、土作りの勉強をもう一回やらなければならないと思いました。

ハウスの中で病気が出ると、今度は農薬の量もいっぱいかけなければ病気が止まらなくなってしまうんですね。今振り返って見ると、そのとき農薬をいくらかけたって病気が治るわけがないんです。

病気というのは人間の体と同じで、どこか弱いところがあると、それによって体力が落ちる。体力が落ちると病気は回復しない。まず体力をつけないと、人間でも病気が回復しないのは同じです。植物、特にトマトやキュウリなども、まず健康な根っこを張っていかないと、根っこがどこかでやられると地上部が病気になってしまいます。これが植物のセオリーなんです。

ですから、そのときいかに農薬をかけても病気は治らないですね。その話は後からも出て来ますが、ですから、農薬というのは上手な使い方をしなければなりません。

農薬奨励の時代背景の明暗

 それと同時に、ちょうどこの頃は、日本農業では化成肥料と農薬の最盛期でした。要するに、化成肥料をどんどんやって農薬をいっぱいかけて米を増産しようというのが時代背景にありまして、滅農薬をしようなんていう新聞も指導者も誰もいない時代でした。

ですが、あまり農薬をかけすぎて農薬障害で死んでいるよという情報がぼちぼち入ってきた時期なので、農薬は使い方によっては非常にいいんですけれども、一歩使い方を間違えると、農業者自身の生命をも危ぶむものだなとそのとき感じました。

実際、私の研修生時代の後輩だったのですが、トマトを作って細かく農薬をかけていた子が視力が落ちてしまいました。それは、農薬の残留だということが大学病院で調べた結果わかったので、とにかく農薬に対する恐ろしさというのは、私自身その頃、ちょうど昭和52、3年の頃から体験としてつかみました。

6.有機農業への一歩(30代後半)

キーワード

 そこで、農薬をかけなくてもいい野菜作りをするのにはどうすればいいのかということが、「有機農業の実成」ということにつながってくるわけなんです。

土作りと農薬をどうやって減らすか、これが、自分の経営の大きな挫折の中で、常に頭から離れない一つのキーワードになってきていたのです。

U先生

 ちょうど普及センターの技師で、U先生という方がいわきに赴任してまいりまして、「助川くん、ボカシ肥料を作ってみないか」と言われました。

「それは何なのですか?」と聞くと、有機肥料の中に菌体を入れて発酵させてから土の中に入れるんだと、それがボカシ肥料なんだということでした。

要するに、土の中にある菌によって分解させるのではなくて、自分の囲場に入れる前に自分でその菌を使って有機質を分解した状態で菌の状態にして畑に施すのです。

すると、その菌がハウスの中で爆発的に広がって、有効な菌が増えます。これを根圏近環境といいます(早口言葉のようで、今では笑い話になっていますが)

植物の根っこの特性

 根っこは自分で酸を出しながら伸びていきます。その酸でいろんなものを溶かしながら、実際は、養分と水分は浸透庄で植物の中に入っていくのです。

植物がポンプでもって自分で吸い上げるのではありません。

圧力の関係で養分と水分が土の中から作物の中に入っていくというのが、作物が養分を吸収する仕組みなんです。

その作物が養分と水分を吸収しやすくするために、根っこの張る環境をよくするために、ボカシは有効なんだという説明だったものですから、当時のハウス部会の仲間に呼びかけまして、ひとつ皆で挑戦してみようということにしました。

ボカシ肥料づくりへの挑戦

 空いている豚小屋があり、そこは三和土になっていましたので、そこで部会のボカシ肥料を作ろうという話になりました。

油粕を貨車で300袋とか500袋とかいっぱい買って、仲間でボカシ肥料を作り始めたのが昭和50年代の後半でした。

認識不足と紆余曲折

 そのときは皆で作って皆でやってみようということだったのですが、今思うと、やはり完全なものはできなかったのです。

菌が有機質に完全に混ざっていればいいのですが、混ざっていないものは、水分と温度と有機物がありますと、今度は自分で菌を出して発酵して悪臭があったりします。

また、未熟なものを土の中に入れると、今度は土の中でガスが出て作物を痛めたり、いろんな紆余曲折がありまして、今思うと完全なものではありませんでした。

しかし、私自身はそのときの体験を、ボカシ肥料という土作りとの出会いがあったというインパクトとして捉えています。

7.農業講座(40代前半)

20年目の再勉強

 昭和63年(1988年)、40歳。就農して20年目という節目の年でした。

ちょうど農業青年会議所という組織活動をしていましたので、その有志で農業講座を開催してみてはどうかという相談をいわき市の農政部から受けたのです。

今のポジションでいうと、農林水産部の農業水産係のWさんという方でした。1年目はなんとなくじゃあ聞いてみようかということで、農業講座に参加しました。

これまでの例だと・・・・

 それ以前も、ハウス部会とか農業後継者会とかの組織の中で講師を呼んで、いろんな農業関係の講師の先生から農業の話を聞きました。

どの先生も立派なことをおっしゃるのですが、必ずその後に、「私の理論を全うするには、この資材が必要なんです」ということで、物売りなんですね。

必ず後から物がついてきて、「それを使わないとその農法は実賎できないですよ」というような講演だったものですから、本当にどっぶりそれを深く追及しようという気持ちにはなかなかなれなくて、自分のやっていることが一番いいんだというような感覚で捉えていたのです。

③ちょっと違うぞ

 しかし、今度の農業講座の先生はちょっと違っていました。

「自分たちが今やっていることからできることから始めてください」という言い方をしてくれましたので、「おう、なんとか、これは金を出さなくていいんだな」という安易な感覚で付き合いが始まったのです。

農業講座は昭和63年から平成4年まで5年間あったのですが、その中でいろんなテーマを決めて活動を行ないました。

現在私の農業を継続していられるのも、お世話になった先生がいっぱいいるのですが、特に良質の野菜を安定的に高価格でという現在の農業スタイルに変わってきた背景には、この農業講座の影響が一番大きいと私は思っているのです。

それは自然農法だった

中味について少し触れますと静岡県のある農場の先生が講師で、K先生といます。 K先生の理論というのが、自然農法というものなのです。

一言でいえば、身の回りにあるいろんなものを有効に使って、有機質を中心に減農薬にもっていってはいかがですかということなのです。

その中で年次計画を立てて、昭和63年は市内一円の講座生を対象に、堆肥作り、土の中の話などいろんな講義をしました。

8.農遊塾へ(40代後半)

農業講座から農遊塾へ

 農業講座は、講師の旅費などを市が払ってくれるような市の事業でしたが、それは5年で終わりました。

そして、その受講生のメンバーでまた継続してやろうということで、平成5年(1993年)から農業講座から「農遊塾」という名称に変わりました。

その塾で何回か講師を呼びながら現地を回っていただいて、今でもいろんな情報交換をしています。迷ったときなどは電話をかけて聞くこともあります。

土の診断めぐり

 またK先生もいわきを特に気にしていただいておりますので、わぎわぎ2日間時間を作っていただいて現在の世界の情勢から始まりまして、今の土はどうなんだとか、作物を見ながら、今のあなたの土は大学生の土ですよとか小学生の土ですよとか、土の出来具合を診断してくれたりします。

それから、作物の根っこの脇を1メートルくらい深く掘りまして、根っこの追跡調査をするのです。どんなふうに根っこが伸びているか、あなたの土の硬度はどのくらいあるか、根っこが張れる土なのか、そういう細かい診断も一緒になって行ないます。

土の中だけは俺の仕事!

 そういう中で、私自身は今、農業者は土をいかに管理するかが一番大事な仕事だなというふうに思っているのです。

ですから、女房やパートさんだの子供だのは、地上部の仕事はいくらでもできます。トマトをもぎったり、トマトの芽を掻いたり、しばったり、そういうのは誰でもできる、土の中の仕事だけは俺の分野だという感覚で農業をやっています。

農遊塾の仲間もみんなそういう感覚です。とにかく農業を話すにはまず土から、農業を指導するのにもまず土から、あなたの土はどんな土なんですか、というふうな感覚に今はなっています。


【付録】旧施設概要(1969年~移転前2015夏まで)

2011年の東日本大震災で液状化現象が発生し、地盤沈下が起こり、大雨が降ると、用水路からあふれてきた雨水がハウス内に侵入するようになってしまいました。
また、2013年よりハウス周辺の地区の農地の基盤整備が始まり、水害の危険性が低い場所にビニールハウスを移転することになり、2015年の夏から冬にかけて、移転工事が行われ、元のハウスのあった場所は、田んぼに戻りました。
下記は移転前の施設の状況です。

助川農園にはビニールハウスが2棟建っています。その他に直売所、休憩所、倉庫、堆肥場等があります。

敷地概要
↑道路を挟んで左側(北側)がAハウス、右側(南側)がCハウスです。
Aハウス
手前がAハウス
Cハウス
Cハウス

敷地平面図

トマトのハウスは、元々は田んぼでした。
減反として昭和45年にAハウス、昭和49年にBハウス、昭和54年にCハウスを建設しました
その後平成20年(2009年)に老朽化が激しかったCハウスを最新式のものに建て直し、AハウスとBハウスをつなげて面積を増やし新Aハウスになりました。

旧ハウス、作付面積と苗数

ハウス名 面積 作付苗数
Aハウス 26.52アール 大玉トマト(ごほうび)約4,600本
Cハウス 17.2アール 大玉トマト(ごほうび)約3,600本
ミニトマト 約100本
合計 43.72アール 約8,300本

※他に田んぼを1.2ヘクタール作っています。